量子力学の父たちは「意識」をどう見ていたか?ボーア、ハイゼンベルク、シュレディンガーの思想をたどる
科学革命の嵐の中で生まれた問い
20世紀初頭、物理学の世界は量子力学の誕生によって根底から覆されました。ニュートン以来の古典物理学では説明できないミクロな世界の振る舞いが次々と発見され、科学者たちはまったく新しい自然観の構築を迫られました。この革命の中心にいたニールス・ボーア、ヴェルナー・ハイゼンベルク、エルヴィン・シュレディンガーといった偉大な物理学者たちは、単に数式を扱うだけでなく、この新しい物理学が突きつける根源的な問い、特に「意識」や「実在」といった問題に深く向き合いました。
彼らは、観測する側の「私」、すなわち意識を持った存在が、観測される側の「世界」とどのように関わっているのかという、古来からの哲学的な問いが、物理学の最前線で再燃していることを肌で感じていたのです。彼らの思想をたどることは、現代の私たちが「意識と量子の接点」を考える上で、非常に重要な手がかりを与えてくれるのではないでしょうか。
ニールス・ボーア:相補性と意識
ニールス・ボーアは、量子現象を理解するための画期的な概念である「相補性の原理」を提唱しました。これは、ある物理システムについて、互いに排他的な性質(例えば、粒子の「波」としての性質と「粒子」としての性質)が、異なる観測設定の下ではどちらも真実として現れる、という考え方です。一方の側面を明確に観測しようとすると、もう一方の側面は曖昧になってしまいます。
ボーアは、この相補性の原理が、物理学だけでなく、生命科学や心理学といった他の領域にも広く適用できる普遍的な原理ではないかと考えました。特に、人間の意識や精神活動について考える際に、物理的な脳の活動という側面と、主観的な体験や感情といった側面は、相補的な関係にあるのではないかと示唆しました。脳を物理的なシステムとして徹底的に分析しようとすると、その個人が体験している主観的な意識の状態は見えにくくなり、逆に、その人の内面の意識を深く理解しようとすると、特定の脳の物理的状態だけでは捉えきれない。このように、彼にとっては、意識の異なる側面や、物理的な記述と主観的な体験といった一見矛盾するような事柄も、より大きな枠組みの中では相補的に存在する、ということだったのかもしれません。
ヴェルナー・ハイゼンベルク:不確定性と観測者の役割
ヴェルナー・ハイゼンベルクは、量子力学の最も有名な原理の一つである「不確定性原理」を発見しました。これは、粒子の位置と運動量のような互いに補い合う物理量を、同時に、かつ正確に測定することはできない、という原理です。どちらか一方をより正確に知ろうとすると、もう一方は必ず不確かになります。
ハイゼンベルクは、この不確定性が、単に測定技術の限界ではなく、ミクロな世界の根本的な性質であると考えました。そして、この原理は「観測」という行為が、観測対象のシステムの状態に不可避的な影響を与えることを示唆しています。古典物理学では、観測者は対象に影響を与えず、客観的な実在をそのまま記述できるとされましたが、量子力学では、観測という行為そのものが、可能性として存在していた複数の状態の中から、一つの現実を「確定させる」かのような役割を持つ可能性が議論されました。
ハイゼンベルクは、このような量子力学の性質を通して、古代ギリシャ哲学におけるプラトンやアリストテレスの思想にも言及しています。彼は、量子力学が示すミクロな粒子の「可能性」としての存在は、プラトンのイデア論における普遍的な形相を想起させると述べました。観測によって特定の「現実」が確定するプロセスは、アリストテレス的な現実化の概念とも比較されることがあります。ハイゼンベルクにとって、量子物理学は単なる自然の法則の記述を超え、人間の認識や実在そのものに関する哲学的な問いへと繋がっていたのです。そして、観測者の役割を論じることは、必然的に意識の役割へと繋がっていきました。
エルヴィン・シュレディンガー:波動関数と生命、意識
エルヴィン・シュレディンガーは、量子システムの時間発展を記述する基本的な方程式である「シュレディンガー方程式」を確立しました。この方程式で扱われる「波動関数」は、ある粒子が特定の場所や状態にある確率の波として解釈されます。量子的なシステムは、観測される前は複数の状態が重ね合わさった「可能性の波」として存在すると考えられます。
シュレディンガーは、この奇妙な重ね合わせの状態が、なぜ私たちマクロな日常世界では見られないのかを問いかけるために、有名な「シュレディンガーの猫」という思考実験を提示しました。これは、ミクロな量子の重ね合わせ状態が、マクロな猫の生死という状態の重ね合わせ(生きている猫と死んでいる猫が同時に存在する!)に結びついてしまうというパラドックスを示すものです。この思考実験は、量子論と日常的な実在観の間の深い断絶、そして「観測」や「意識」が波動関数を崩壊させ、一つの現実を選択するのではないかという観測問題の難しさを浮き彫りにしました。
さらにシュレディンガーは、物理学者として初めて本格的に生命の物理的な基盤について考察した人物の一人でもあります。彼の著書『生命とは何か』は、その後の分子生物学に大きな影響を与えましたが、その中で彼は、生命体の秩序や情報処理といった問題を、当時の物理学の知見と照らし合わせながら深く探求しました。そして、生命の最も根源的な問いの一つとして「意識」を取り上げ、「物理学では意識の謎は解けないのではないか」と述べるなど、科学の限界と意識の特異性についても率直な考えを示しています。
また、シュレディンガーは東洋哲学、特にヴェーダーンタ哲学に深い関心を寄せていました。彼は、個人的な意識(アートマン)が宇宙全体の意識(ブラフマン)と究極的には同一であるというヴェーダーンタの思想が、科学が到達できない意識の領域を示唆しているのではないかと考えたようです。科学者でありながら、意識の謎を探求する中で哲学や宗教といった領域にも目を向けたことは、彼らの探求がどれほど根源的なものであったかを示しています。
創始者たちの思想が現代に与える示唆
量子力学の創始者たちが意識や実在について行った考察は、現代の意識研究や物理学の最前線においても、今なお重要な示唆を与えています。
彼らが問いかけた「観測者の役割」「主観性の介在」「物理的な記述と主観的体験の相補性」といった問題は、現代の「量子脳理論」や「量子情報」といったアプローチで再び議論されています。脳内の微細な構造や活動において、量子的な現象が意識の発生に何らかの役割を果たしているのではないか、あるいは、意識そのものが宇宙に遍在する「情報」の一種として捉えられるのではないか、といった仮説が探求されています。
また、彼らが科学の枠を超えて哲学や東洋思想にまで目を向けたことは、意識という複雑な現象を理解するためには、単一の科学的手法だけでなく、多様な視点や伝統的な知恵をも統合する必要があるのかもしれない、ということを私たちに教えてくれます。科学的な厳密さを保ちつつも、人間の内面世界や存在そのものに対する深い洞察を求める姿勢は、現代の私たちが科学と精神性、哲学を統合しながら自己や世界を理解しようとする探求の姿勢と共鳴するのではないでしょうか。
終わりのない探求の旅
量子力学の創始者たちは、科学の革命者であると同時に、深遠な哲学者でもありました。彼らが提示した量子論は、世界をこれまでとは全く違う形で見ることを私たちに求め、そして意識や実在に関する根源的な問いを再び投げかけました。
彼らの思想は、量子物理学が示す世界観が、単なる物理的な現象の記述に留まらず、人間の知覚、意識、そして存在そのものに対する私たちの理解に深く関わっていることを示唆しています。科学的な知見が深まるにつれて、意識という謎はますますその奥深さを増しています。彼らが始めたこの探求の旅は、今もなお続いており、私たち一人ひとりが自身の内面と向き合い、この不思議な世界との接点を探るためのインスピレーションを与えてくれることでしょう。